日蔵上人が吉野山で鬼に会った話

今回の説話は『宇治拾遺物語』の「日蔵上人が吉野山で鬼に会った話」。平安時代中期の奈良県吉野山での話。「人に恨みを残すのは、結局、自分に返ってくるものでした」。憎しみの炎にわが身をこがされた紺青の鬼が、その苦しみを上人に訴える。人を喰らう鬼もいればこんな鬼もいる。鬼もいろいろ。
(『宇治拾遺物語』巻第11-10「日蔵上人、吉野山にて鬼にあふ事」)

日蔵上人と紺青の鬼(出所:国立国会図書館デジタルコレクション『宇治拾遺物語』)

現代語訳

 昔、吉野山日蔵上人が、吉野の奥で修行して歩いておられた時、身の丈が7ほどの鬼と出会った。鬼の体の色は紺青、髪は火のように赤く、首は細く、胸骨は殊のほか出っ張ってとがっており、腹はふくれて、脛(すね)は細かった。鬼は、上人に会って、両手の指と指を組み合わせて恭順の意を示し、泣き続けた。上人が、
「どうしたのだ」
と問うと、この鬼は涙にむせびながら話した。
「私は、4、500年も過ぎた昔の者ですが、ある人のために恨みを残して、今はこのような鬼の身となっています。その敵(かたき)は思いどおりに取り殺しましたが、その子、孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)にいたるまで一人残らず取り殺してしまって、今はもう殺すべき者がなくなりました。それで、彼らが生まれ変わっていく先までも突き止めて取り殺そうと思っていますが、次々と生まれ変わる先までは知りようもなく、取り殺しようもありません。憎しみの炎はこれまでと同じく燃えていますが、敵の子孫は絶え果てました。私一人、尽きもせぬ憎しみの炎に燃えこがれて、どうしようもない苦しみばかりを受けています。こんな心を起こさなければ、極楽や天上界に生まれていたかもしれません。強い恨みを残して、このような身になり、無限永劫の苦を受けるということが、どうしようもなく悲しいのです。人に恨みを残すのは、結局、自分に返ってくるものでした。敵の子孫は尽き果てましたが、私の命が果てることはありません。かねてからこのような理(ことわり)を知っていたら、こんな恨みを残すようなことはしなかったでしょう」
と言い続けて、涙を流して泣くこと限りなかった。その間に、頭の上から炎が徐々に燃え出してきた。そしてそのまま山の奥に消えて行った。
 そこで、日蔵上人は気の毒に思って、その鬼のために、さまざまの罪滅ぼしになるようなことをなされたという。

注釈

  1. 吉野山map:奈良県中央部、吉野町にある山地。吉野川の左岸から大峰山脈北端に向けて高まる約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称。出羽(山形県)の羽黒山、伯耆(鳥取県)の大山などともに知られる修験道の根本道場の一つ。
  2. 日蔵上人:平安時代中期の僧。延喜5年(905年)生まれともいわれるが定かではない。三善氏。参議清行の子(一説に弟)といわれる。初め道賢、のち蔵王権現の神託により日蔵と改名。天慶4年(941年)に急死するが、金峰山の浄土と地獄をめぐり、大政威徳天となった菅原道真と会い、地獄で苦しむ醍醐天皇(藤原時平の讒言を受けて道真を大宰府へ左遷した)を見て生き返ったという資料1
  3. :1尺は約30.3センチ。7尺なら、約2.1メートル。
  4. 紺青:紫がかった青色。
  5. 取り殺(す):死霊や鬼神が取り付いて命をとること。たたって殺すこと。
  6. 天上界:六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)の中の天道の世界。

資料

資料1 日蔵上人の六道巡り(『北野天神縁起』より。頓死した日蔵上人が金剛蔵王の神通力で六道を巡り、大政威徳天となった菅原道真と会い、地獄で苦しむ醍醐天皇の懺悔を聞く)

出所:国文学研究資料館

資料2 六道絵の一つ『餓鬼草紙』より。水が火に見えて飲めないと仏に訴える餓鬼たち

出所:ColBase(国立博物館所蔵品統合検索システム)

地図、時代区分

現在の奈良県吉野郡吉野町吉野山での話。
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日蔵上人が生きていた平安時代の話。

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