高陽親王が人形を作って田の中に立てた話

桓武天皇の御子である高陽(賀陽)親王は、優れた細工師としても知られていました。御子が、田に立てた人形は「かかし」ではなく、ユーモラスなからくり人形。そのからくり人形を目当てに、京中の人が市をなして集まったことにより、懸案の問題が見事に解決されます。遊び心と知恵に富み、また風流人でもあったという御子の魅力に惹かれて、このエピソードを紹介します。 (『今昔物語集』巻第24-2「高陽親王造人形立田中語」)

からくり人形を作る高陽親王 (出所:『前賢故実8』〔独立行政法人国立公文書館所蔵〕「国立公文書館デジタルアーカイブ」収録)

現代語訳

 今は昔、高陽親王(かやのみこ)と申す人がいらっしゃった。この人は  天皇の御子である。名人の域に達した優れた細工師であった。京極寺という寺がある。その寺はこの親王が建立なさったものである。その寺の前の河原にある田は、この寺の領地である。
 さて、国中が干ばつに見舞われた年、至る所の田が皆干上がってしまうと大騒ぎしていたところ、ましてや、この田は賀茂川の水を入れて作る田であったので、その川の水が絶えてしまったため、ただの庭のようになって、苗も皆赤らんでしまいそうであった。
 そこで、高陽親王がこの対策をお考えになったことには、身の丈が4尺ばかりの童子が左右の手で器をささげ持って立っている人形を作って、この田の中に立て、人がその童子が持っている器に水を入れると、水が盛られるたびに顔に流し掛けるという、からくりを作った。これを見る人が、水をくみ、童子が持っている器に入れると、水が盛られるたびに顔に流し掛け、流し掛けするので、これを面白がってクチコミが広がり、京中の人が市をなして集まり、水を器に入れて、それを見て楽しみ大騒ぎすることが尽きなかった。このようにしている間に、その水が自然に  、田に水が十分に満ちた。そのタイミングで童子を取り隠した。また水が乾くと、童子を取り出して田の中に立てた。すると、また前のように人が集まって、水を入れているうちに、田に水が満ちた。このようにしてその田は少しも干上がることなく済んだ。
 これは見事なからくり仕掛けである。これも御子が細工の名人で、その風流の技のなせるところであると人がほめたたえた、とこう語り伝えているということだ。

注釈

  1. 高陽親王:延暦13年(794)〜貞観13年(871)。「賀陽」とも。桓武天皇の第7皇子。なお、親王の創案した薫物方(薫物のレシピ)があり、その名にちなんで、「賀陽宮」と名付けられている。
  2.   天皇:欠字。「桓武」が該当する。
  3. 京極寺:もと京極三条(現京都市中京区)にあった寺。寺伝では、宝亀5年(774)開成法皇子の開基で、延暦元年(782)高陽親王を2世とする。嵯峨天皇の勅願所であった。
  4. 4尺:1尺は約30.3センチ。4尺なら、約1.2メートル。
  5. クチコミが広がり:原文は「聞継ツヽ」。
  6.   :欠字。「貯まっ(て)」とみる。

資料

資料1 『ニ中歴』(鎌倉期成立の百科事典)に「細工」の名人として名が挙がる親王

出所:近藤瓶城 編,近藤出版部『史籍集覧 23』(国立国会図書館所蔵)「国立国会図書館デジタルコレクション」収録(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920383/122

資料2 親王が創案した薫物「賀陽宮」のレシピ(六種の薫物のうち、「侍従」のもの) 「沈(香)4両、丁子2両、甲香1両、甘松1分、鬱金1分」

出所:『薫集類抄』(独立行政法人国立公文書館所蔵)「国立公文書館デジタルアーカイブ」収録(https://www.digital.archives.go.jp/img/706424/11

地図、時代区分

京極寺は、現在の京都府京都市中京区三条町辺りにあったという。
平安時代の話。

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