夢を買う人の話

古代では夢もまた一種の実体としてとらえられており、そこから、夢を売買する話も生まれました。「夢解き」を職業にする者もいて、鎌倉期成立の『二中歴』にはその名手の名前まで掲載されています。本話は、若き日の吉備真備が夢を買う話。夢占いの女を巧みに説得し、他人が見た出世の夢を、見事自分の夢とする真備。真備はその後、2度の入唐を経て右大臣にまで出世します。
(『宇治拾遺物語』巻第13-5「夢買ふ人の事」)


吉備真備(出所:『肖像及伝記』(国立国会図書館所蔵))

現代語訳

 昔、備中国郡司がいた。その子に、ひきのまき人(ひと)という者がいた。若者であった時、夢を見たので、夢占いをさせようと、夢解きの女のもとに行った。夢占いの後、雑談をしていたところ、人々ががやがや言いながらやってきた。国守の御子のご長男がおいでになったのだった。年は17、8ばかりの若者でいらっしゃった。気立ては分からないが、容姿は端正である。4、5人ばかりの供を連れていた。若君が、
「ここか、夢解きの女の家は」
と問うと、お供の侍が、
「ここでございます」
と言ってやって来るので、まき人は、奥の方に行き、部屋に入った。部屋の穴からのぞいて見ると、この若君がお入りになり、
「夢をしかじか見たのだ。どういうものか」
と言って語り聞かせる。女はそれを聞いて、
「実に優れた夢です。必ず大臣にまでご出世なさるでしょう。返す返すも素晴らしい夢をご覧になりました。決して決して、人にお話しなさいますな」
と申したので、この若君はうれしそうな様子で、衣を脱いで女に与えて帰った。
 その時、まき人が部屋から出て来て、女に、
「夢は取る、ということがあるそうだ。この若君の御夢を私に取らせてほしい。国守は4年を過ぎると都に帰る。私はこの国の者だから、いつまでも長くここにいるだろうし、郡司の子なので、私こそ大事にしたほうがいい」
と言うと、女は、
「おっしゃるとおりにいたしましょう。それでは、先ほどいらした若君のようにしてお入りになり、その語られた夢を、寸分たがわずにお話しください」
と言ったので、まき人は喜んで、あの若君がそうであったのと同じように入って来て、夢語りをしたので、女も同じように言う。まき人は大層うれしく思って、衣を脱いで女に与えて去った。
 その後、書物を習い読むと、上達に上達して、学識のある人になった。帝が評判をお聞きになって試験をされたが、実に学識が深かったので、唐(もろこし)へ、「文物を十分に学んでくるように」と派遣した。長らく唐にいて、さまざまなことを習い伝えて帰って来たので、帝は優れた人物とお思いになり、次第に昇進させ、大臣にまでなされたのであった。
 だから、夢を取るということは、誠に恐ろしいことである。あの夢を取られてしまった備中守の子は、官職もない者で死んでしまった。夢を取られなかったなら、きっと大臣にまでもなったであろう。それ故、夢を人に聞かせてはならないものだと、言い伝えているのである。

注釈

  1. 備中国:旧国名。現在の岡山県の西部。
  2. 郡司:令制下の地方官で、国司の下で、一郡を統治した。終身官で、土地の豪族から世襲的に選任される例が多かった。
  3. ひきのまき人:吉備真備(695〜775)のことかとされる。奈良時代の学者、政治家。備中国下道(しもつみち)郡出身。その郡域は、現在の倉敷市と総社市の一部に当たる。霊亀3年(717)入唐の遣唐留学生。在唐17年、天平6年(734)帰国。天平勝宝4年(752)には遣唐副使として再度入唐し、同5年(753)に帰国。称徳天皇の天平神護2年(766年)、右大臣に昇進。吉備大臣と称される。儒学、天文、兵学に精通し、釈奠(せきてん:孔子を祭る儀式)の儀式を定めるなどした。
  4. 夢解き:夢の内容によって、その夢の意味するところや、将来の吉凶を判断すること。また、それを職業としている者。『二中歴』(鎌倉期成立の百科事典)には、夢解きの名手の名前が見える(後掲資料1)。
  5. 国守:国司の長官。国司は、令制下、各国の行政に当たった地方官。守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官がある。任期は4年。
  6. 「衣を脱いで女に与えて」:人の労をねぎらい、褒美として与える品を「被(かづ)け物」というが、その品は、布地や衣類であることが多かった。「被け物」とは、それを授ける者が受ける者の左肩に「かづけ(=上カラ掛ケ)」て与えたことから、その名がある。なお、当時はまだ銭貨の流通は乏しく、米や衣が現物貨幣として利用されていた。

●プラスα:「夢告」と「夢解き」について
 夢は、神仏の啓示または介入を伴うものと信じられており、「夢告」は神仏の託宣の一種であった。『蜻蛉日記』中巻には、夫である藤原兼家の女性関係に悩んだ道綱の母が、心の傷を癒すため、石山寺に参籠して夢告を得る場面が記されている。後掲資料2は『石山寺縁起』巻2第8段に描かれたその時の様子。
 また、夢は善く合わせる(解く)と吉となり、悪く合わせる(解く)と凶になるとも信じられていた。『江談抄』第3「伴大納言本縁事」は、伴善男が吉夢を見たにもかかわらず、それを妻に話したところ、妻が悪く合わせたため、その後立身出世したものの、後に事に坐した(応天門の変を指す)とする。

資料

資料1 『ニ中歴』に見える「夢解き」の名手の名前

出所:近藤瓶城 編,近藤出版部『史籍集覧 23』(国立国会図書館所蔵)「国立国会図書館デジタルコレクション」収録(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920383/122

資料2 神仏の「夢告」を得る藤原道綱の母(僧が銚子に水を入れて右膝にかける夢)

出所:狩野晏川/山名義海模『高階隆兼等/石山寺縁起』(東京国立博物館所蔵)「ColBase」収録

地図、時代区分

備中国下道郡、現在の岡山県倉敷市と総社市の一部に当たる地域での話。奈良時代の話。
ここでは、下道郡の郡衙があったとされる秦原郷、現在の総社市秦地区の地図を示す。 

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