(『今昔物語集』巻第26-11「参河国始犬頭糸語」)
現代語訳
今は昔、参河国□郡に一人の郡司がいた。妻を二人持ち、妻に養蚕をさせて、糸を多く作っていた。
ところが、本妻のところの養蚕は、どうしたわけか、蚕が皆死んで、飼うことができなかったので、夫も妻に冷淡になり、寄り付かなくなった。そのため、従者たちも、主人が行かなくなったので皆行かなくなり、妻の家は貧しくなり、人もいなくなった。その結果、妻はただ一人で暮らし、従者はわずかに二人ばかりであった。妻は心細く悲しいこと、この上なかった。
その家に飼っていた蚕が皆死んでしまったので、蚕をまったく飼わなくなっていたが、1匹の蚕が桑の葉に付いて食っているのを見付けて、これを取って飼っているうち、この蚕がやたら大きくなった。そこで、桑の葉を摘み取って入れてみると、入れただけ食べてしまう。これを見ていると、いとおしく思えたので、大事に大事に育てた。
「これを1匹だけ育てても、仕方がないだろう」
とは思ったものの、長年飼っていたのが、この3、4年はまったく飼っていなかったので、このように思いがけず飼うようになったことが懐かしく思えて、大切に飼っていた。その家では白い犬を飼っていたが、ある時、その犬がそばで尾を振って座っていたその前で、この蚕を何かのふたに入れて、桑を食う姿を見ていたところ、この犬が立ち上がり走り寄って来て、この蚕を食ってしまった。驚き、腹立たしく思えたが、この蚕を1匹食ったからといって、犬を打ち殺すわけにもいかない。
そうして、犬は蚕を食って飲み込んで、こちらを向いて座っていた。
「蚕1匹すら飼えないなんて。これも前世からの因縁なのだろう」
と思うと、さびしく悲しくなって、犬に向かって泣いた。すると、この犬がくしゃみをして、鼻の二つの穴から、白い糸が2筋、1寸ばかり出てきた。これを見て不思議に思い、その糸を取って引いてみると、2筋とも、するすると長々と出てきたので、それを糸を巻き取る枠に巻きつけた。その枠に多くを巻き取ったので、また違う枠に巻くと、また□□ので、さらに別の枠を取り出して巻き取った。このようにして、2、300の枠に巻き取っても尽きなかったので、竹の棹(さお)を渡して、それに繰りかけた。それでもなお尽きなかったので、今度は桶に巻いた。4、5000両ばかり巻き取って後、糸の末端が繰り出されると、犬は倒れて死んでしまった。その時、妻は、
「これは仏神が、犬になってお助けくださったのだ」
と思って、家の後ろにある畑の桑の木の根元に、犬を埋めた。
さて、妻がこの糸を精製できずに持て余していると、夫の郡司が所用で出掛ける途中、その門前を通り掛かった。家の中がたいそうさびしげで、人けもないので、さすがに気の毒に思って、
「妻はいまどうしているのだろう」
とかわいそうになり、馬から降りて家に入ってみたが、人影もない。ただ、妻が一人で多くの糸を持て余していた。これを見ると、我が家でたくさん飼っている蚕から取る糸は黒く、節があって粗悪なのに、この糸は雪のように白く光沢があって、すばらしいことこの上なく、この世にまたとないほどだった。郡司はこれを見て、大いに驚き、
「これはどうしたことか」
と問うと、妻は事の有様を包み隠さず語った。郡司はこれを聞いて、「仏神がお助けになった人を、自分が疎かに思っていたこと」を後悔し、そのままとどまって、新しい妻のもとへは行かず、この妻と暮らすようになった。
その犬を埋めた桑の木に、蚕がびっしりと繭を作った。そこで、またそれを取って糸を引くと、すばらしいこと、この上ない。郡司はこの糸ができた経緯を国司の□という人に話したところ、国司は朝廷に事のいきさつを言上し、それより後、犬頭(いぬのかしら)という糸をこの国から献上することとなった。その郡司の子孫が伝えて、今もその糸を献上する家として続いているそうだ。この糸は蔵人所に納められて、天皇のお召し物に織られることになっている。天皇のお召し物の材料として出現したのだろうと、人は語り伝えている。また、新しい妻は、本妻の蚕をなんとかして殺した、と語る人もいるが、確かなことは分からない。
これを思うに、前世の因縁によって、夫婦仲も元に戻り、糸も出てきたのであろう、と語り伝えているということだ。
注釈
- 参河国:三河国。現在の愛知県東部に当たる地域。
- □郡地図:□の部分は、郡名の明記を期した意識的欠字。
- 郡司:令制下の地方官で、国司の下で、一郡を統治した。
- 1寸:1寸は約3.03センチ。
- また□□ので:□□の部分は破損による欠字か、意識的欠字か不明。
- 4、5000両:両は重さの単位。16両が1斤(約600グラム)。4、5000両なら、約2400、3000キログラムとなる。
- 国司の□という人:□の部分は、国司の姓名の明記を期した意識的欠字。
- 犬頭という糸資料:平安時代、三河国から調として納めた生糸。『延喜式』(巻24主計寮上)に、参河国の調として「犬頭糸」「犬頭の白糸」が見える。同国特産の名品であったらしい。
- 蔵人所:弘仁元年(810)、嵯峨天皇によって設置された令外の官。宮中の諸事務・諸雑務を掌った。
●プラスα
西宮秀紀「古代参河国と犬頭糸・白絹」(「安城市史研究」7号、2006年3月)を読むと、「犬頭糸」について詳しく知ることができるほか、本話の解釈についても多くの示唆を得ることができます。
http://hdl.handle.net/10424/5804
資料
資料 三河国の「調」とある「犬頭糸」「犬頭の白糸」(『延喜式』〔巻24主計寮上〕より)
地図、時代区分
現在の愛知県の三河地域での話。
中でも、ここでは、前掲「古代参河国と犬頭糸・白絹」にて、犬頭糸を作っていたとされている旧碧海郡の地域とみる。その上で、「碧海」の当初の読みである「あおみ」より、青見里があったとみられる、現在の愛知県安城市付近の地図を掲げる。
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平安時代の話。