武勇を誇る法師の妻のもとに通った源義家を、怒った法師が待ち伏せ。その結末は……
(『古今著聞集』巻第9 武勇第12「源義家、或る法師の妻と密会の事」)
現代語訳
源義家は若い時、ある法師の妻と密会していた。この女の家は、二条猪隈(いのくま)の辺りにあった。築地に桟敷(さじき)を造り、その前に堀を設け、周囲にはとげのある灌木を植えていた。ずいぶん武勇を誇る法師であったので、外からの侵入に注意していたのである。義家が、法師が外出している隙をうかがって、夜更けにその堀の傍に牛車を寄せると、女は桟敷の蔀(しとみ)を開けて、簾(すだれ)を持ち上げた。間髪入れず、義家が牛車のとびの尾から桟敷に飛び込んだ。堀の幅もひとかたではないのに、高く跳躍して入ったらしい、その身のこなしは、凡人とはかけ離れたものだった。このようなことが度重なったため、法師は誰かからそのことを聞きつけ、妻を責め立て問い詰めた。妻はありのままに白状した。
「では、いつものとおりに私は留守だといって、その男を引き入れてみよ」
と、法師は妻に命じた。女は言い逃れようがなく、言うとおりにするしかなかった。
桟敷の蔀を上げて、いつものように義家が堀を飛び越えて入ってくるところを斬ってやろうと思い、法師は義家が降り立つところに厚い碁盤を置き、盾のように立てて、それにつまずかせるよう仕向け、太刀を抜いて待っていた。案の定、義家がやって来て牛車を堀の傍に寄せたので、女はいつものようにしたところ、義家は、とびの尾から飛び込みざまに、鳥が飛ぶように余裕をもって、小さな太刀を身に引き付けて持っていたのを抜いて、碁盤の角を5、6寸ばかりすっぱりと切って中に入った。法師は、これは尋常の人ではないと思い、どうしようもなく恐ろしくなり、あたふたとしっぽを巻いて逃げてしまった。後になって法師が人に尋ね聞いたところ、その男は八幡太郎義家とのことだった。それを聞いた法師は、ますます臆すること、この上なかった。
注釈
- 源義家:平安後期の武将。八幡太郎と称する。前九年の役では父に従い活躍。のち陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役で清原氏の内紛を鎮圧。朝廷は私闘として行賞を認めなかったため私財を将士に提供。これにより武家の棟梁としての名声が高まり、東国に源氏の基盤を築いた。天下第一の武勇の士とされた。
- 二条猪隈(いのくま)の辺り地図:二条大路と猪隈小路が交差する辺り。現在の京都市中京区にある二条城の辺り。
- 築地(ついじ)資料1:泥を塗り固めて作った塀。土塀。
- 桟敷(さじき):数段高く作った物見用の建物。
- 蔀(しとみ)資料2:格子を取り付けた板戸。大抵は、上下2枚の戸で、下の戸ははめ込み、上の戸を釣り上げる様式。
- とびの尾資料1:鴟(とび)の尾。牛車の後方の左右に出ている短い棒の部分。
- 5、6寸:1寸は、約3.03センチ。5、6寸なら、約15、18センチ。
資料
資料1 『春日権現験記絵』(模本)_巻5(東京国立博物館)より、築地(土塀)と牛車
地図、時代区分
現在の京都府京都市中京区にある二条城二の丸御殿辺りでの話。
Google マップで見る
源義家が生きていた平安時代の話。