丹波国の篠村に、平茸が生える話

今回の説話は『宇治拾遺物語』の「丹波国の篠村に、平茸が生える話」。12世紀半ば、今の京都府亀岡市を舞台にした話です。「縁が尽きて」群生していた平茸は一斉に消えてしまいますが、その理由を里の長老に夢で告げるのがボサボサの髪の法師たち。「平茸=法師」とされる不思議。その由来は宋の禅宗関係の書に?
(『宇治拾遺物語』巻第1-2「丹波国篠村、平茸生ふる事」)

篠村近くの風景(『一遍聖絵』より。篠村から約5キロにある穴生観音堂周辺の風景)(出所:国立国会図書館デジタルコレクション)

現代語訳

 これも今は昔、丹波国の篠村というところに、長年の間、平茸(ひらたけ)がどうしようもないほどたくさん生えていた。里の者はこれを採って人にも贈り、また、自分も食べるなどして久しく過ごしていた。その里の長老の夢に、ボサボサの髪をした法師たちが2、30人ばかり現れて、
「お話ししたいことが……」
と言ったので、
「何者か」
と問うと、
「ここにいる法師らは、長い間、里の皆さまによく奉仕してきましたが、この里との縁が尽きて、このたびよそへ移ることになりましたが、さびしくも思われます。また、その理由を申し上げなければと思い、かように申すのです」
と言う。
 長老は、目が覚めてから、
「これは何事だろうか」
と妻や子などに語っていると、またその里の他の人の夢にも、こんなふうに見えたといって、大勢が同じように語るので、不思議に思いつつ、その年も暮れた。
 さて、次の年の9、10月にもなったころ、例年、平茸が生えてくる時期なので、山に入って平茸を探したが、まったく茸(きのこ)の類いは見当たらない。どうしたことなのかと、里の者が思って過ごしていたところに、故仲胤(ちゅういん)僧都といって、説法の名人がおいでになった。この話を聞いて、
「これはどうしたことだ、『不浄説法する法師、平茸に生まる』ということはあるのが……」
とおっしゃった。
 だから、どんなことがあっても平茸は口にすべきものではなかろうと、ということだ。

注釈

  1. 丹波国の篠村地図:京都府亀岡市篠町篠の辺り。京都から山陰道を老坂(おいのさか)を越えて丹波国に入ってまもなくの交通の要衝として栄えていた村里。宇治拾遺物語が編まれた約100年後、足利高氏(のちの尊氏)が、鎌倉幕府倒幕のため、当地の篠村八幡宮に祈願して挙兵した地でもある。
  2. 平茸資料1:ヒラタケ科の食用キノコ。晩秋から春にかけて、各地の広葉樹の枯木に生える。傘は灰色か黒褐色で、短い白い柄がある。
  3. 仲胤僧都:12世紀半ばに活躍した僧。権中納言藤原季仲(すえなか)の八男。保元元年(1156)権少僧都となる。比叡山延暦寺の名説法師として知られた。
  4. 「不浄説法する法師、平茸に生まる」資料2:不浄説法とは、仏の教えにかなわない邪法を説いたり、名利のために説法したりすること。「不浄説法する法師、平茸に生まる」は、『景徳伝燈録』(宋の禅僧の道原が1004年に著した禅僧の伝記をまとめた書)の迦那提婆(かないだいば)伝の故事に由来するともいわれる。迦那提婆伝には、道眼(真理を明らかに見きわめる目)を持たない僧が布施を受けた報いで木菌(きのこ)になった話が収録されている。

資料

資料1 平茸(『和漢三才図会』より。右は椎茸)

出所:国文学研究資料館

資料2 道眼(真理を明らかに見きわめる目)を持たない僧が布施を受けた報いで木菌(きのこ)とされた故事(『景徳伝燈録』巻2「第15祖 迦那提婆」伝より)

出所:国立国会図書館デジタルコレクション

資料3 江戸時代の茸狩りの様子(『摂津名所図会』の「金竜寺山松茸狩」より)

出所:ウィキメディア・コモンズ

地図、時代区分

現在の京都府亀岡市篠町篠の辺りでの話。
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仲胤僧都が生きていた平安時代の話。

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