(『今昔物語集』巻第28-16「阿蘇史値盗人謀遁語」)
現代語訳
今は昔、阿蘇の□という史(さかん)がいた。背丈は低かったが、性根はとても抜け目のない、したたか者であった。
家は、西の京にあった。公務があって内裏に参上し、夜が更けてから家に帰ろうと、待賢門より出て、牛車に乗って大宮大路を南に向かわせていた。途中、史は、着ていた装束を皆脱いで、片っ端からたたみ、車の敷き物の下にきちんとそろえて置いた。そして、その上に敷き物を敷いて、冠をつけ、足袋だけを履いて、裸になって車の中に座っていた。
さて、二条大路から西に向けて車を進めさせていくうち、美福門の辺りを過ぎるころ、盗人が周囲からばらばらと出てきた。車の轅(ながえ)に手をかけ、牛飼童を殴りつけたので、童は牛を捨てて逃げた。車の後ろに下人が2、3人いたが、皆逃げ去った。盗人が近寄ってきて、車の簾を引き開けて見ると、裸で史が座っている。盗人が「なんだ、これは」と思って、
「これはどうしたのだ」
と問うと、史は、
「東の大宮大路にて、このようになったのですよ。あなた様方のような方たちが寄ってきて、私の装束を皆、召し上げたのです」
と、笏(しゃく)を取って、貴人に申し上げるようにかしこまって答えたので、盗人は笑って、史を捨て置いて去って行った。その後、史が、大声で牛飼童を呼ぶと、皆出てきた。そこから、家に帰って行った。
そうして、妻にこのいきさつを話したところ、妻は、
「あなたは、その盗人にもまさった性根をお持ちでしたのね」
と言って笑った。誠に、なんとも不気味なほどの性根である。装束を皆脱いで隠しておき、そういうふうに言おうと考えた気働きは、まったくもって尋常の人が思いつくべきことではない。
この史は格別機知に富んだ者であったので、こんなことも言えたのだ、とこう語り伝えているということだ。
注釈
- 阿蘇の□:阿蘇某の名の明記を期した意識的欠字。
- 史:令制の四等官の最下位の地位である「主典」(さかん)のうち、神祇官、太政官の主典のこと。主に、文書の作成や公文書管理などをつかさどった。
- 西の京:平安京の右京。なお、天元5年(982)に慶滋保胤が著した『池亭記』には、「西京(にしのきょう)は人家漸(ようや)く稀にして、殆(ほとほと)幽墟に幾(ちか)し。人は去ること有りて来ることなし。屋(いえ)は壊(やぶ)るること有りて造ることなし」と、「西京=右京」の衰退状況が描かれている資料3。
- 待賢門:平安京大内裏の十二門の一つ。外郭東側中央にある。郁芳門の北、陽明門の南にあり、中御門大路に向かって開く。
- 大宮大路:平安京の左京、大内裏の東面を南北に走る大路。
- 装束:衣服。ここでは束帯姿の正装。
- 二条大路:大内裏の南側を通っていた。二条の大路。
- 美福門:平安京大内裏の十二門の一つ。外郭の南面、朱雀門の東にあり、壬生大路に通じる。
- 轅:牛車の前方に長く並行に付いている2本の長い柄(え)。先端に軛(くびき)という横木を渡して牛に引かせる。
- 牛飼童:牛車の牛を引く小者。垂れ髪で、狩衣や水干を着用し、童の姿をし、童名で呼ばれるのが通例。少年が多いが、老齢に及ぶ者もいた。
- 笏:官人が右手に持つ細長く薄い板。もとは儀式の際、忘れてはならない必要事項を記した紙(笏紙)を貼るためのものであったが、後にはもっぱら威儀を整える具となった。
資料
資料1 阿蘇史が移動した道筋(森幸安『皇城大内裏地図』を一部加工して作成)
資料2 小八葉車(こはちようのくるま)(松平定信『輿車図考』より。小八葉車は、屋形や袖などに八曜〔八葉〕の文様を散らした八葉車の一種で、八葉の文様の小さいもの。殿上人以下、地下の者の所用といわれる。阿蘇史もこのような牛車に乗っていたか)
資料3 『池亭記』に描かれた西の京の衰退状況([藤原]明衡 撰,田中長左衞門『本朝文粹 巻11-12』のうち、巻12より)
地図、時代区分
盗人が現れた場所は、現在の二条城の西側、京都府立朱雀高等学校の東側にある美福通りの辺り。
平安時代の話。