(『十訓抄』第4「人の上を誡むべき事」の2)
現代語訳
粟田讃岐守兼房という人がいた。長年の間、和歌を好んでいたが、まずまずの出来の歌さえ詠むことができなかったので、心に常に人麻呂を念じていた。ある夜の夢に、西坂本と思われる所で、木はなく、梅の花ばかりが雪のように散って、この世のものとは思えないほどのよい香りを漂わせていた。心に素晴らしいと思うと、傍らに年をとった人がいた。直衣に薄色の指貫、紅色の下袴を着け、なえた烏帽子をかぶり、烏帽子の後ろは大層高くて、尋常の人には見えなかった。左手に紙を持って、右手に筆を染め、何か考え事をしている様子である。不思議に思い、「何人(なんぴと)か」と思っていると、この人が、
「長年、人麻呂を心に懸けていらっしゃる、その志の深さによって、姿を見せ申し上げる」 とだけ言って、姿を消して失せてしまった。
夢が覚めてから、朝に絵師を呼び、この有り様を語って、絵を描かせたけれども似ていない。そのため、何度も描かせた上で、似ているのを宝にして、常に敬い拝んでいたところ、その御利益があったのだろうか、以前よりも良い歌を詠むことができるようになった。何年か後、死を迎えようとした時、白河院にその絵を献上したところ、院は大変お喜びになって、御宝物の中に加え、鳥羽の宝蔵に収められたのであった。
六条修理大夫顕季卿は、さまざまに幾度も院に申し願って、絵をお借り申して、信茂を誘って、それを描き写して持っていた。敦光に讃を作らせて、神祇伯顕仲に清書をさせて、本尊として、初めて影供されたのであった。その頃、顕季卿には多くの婿たちがいたが、歌道の人であるとして、俊頼朝臣が供御をそなえる役をお勤めになった。こうして、長年、影供を欠かすことはなかった。
注釈
- 西坂本:現在の京都市左京区修学院、一乗寺付近。滋賀県大津市の坂本に対して西の坂本の意。
- 直衣:天皇や上級貴族が用いた平服。束帯姿に対して、普段着の姿をいう。
- 薄色:薄紫、薄藍、薄紅梅色などを指す。
- 指貫:袴の一種。裾にくくりひもの入った袴。
- 烏帽子:(烏塗[くろぬり]の帽子の意)元服した男性の冠物 (かぶりもの) の一種。
- 白河院:第72代天皇。延久4年(1072)〜応徳3年(1086)在位。幼少の堀河天皇に譲位後も、上皇として院政を始め、堀河・鳥羽・崇徳天皇の3代・43年間にわたり、政治の実権を握った。
- 鳥羽の宝蔵:白河院の鳥羽離宮の北殿にあったとされる宝蔵。
- 六条修理大夫顕季卿:藤原顕季。平安後期の公卿、歌人。歌道の六条家の祖。修理大夫は、皇居の造営、修繕をつかさどる修理職の長官。
- 信茂:未詳。
- 敦光:藤原敦光。平安後期の官吏、漢詩人。『柿本影供記』(元永元年[1118])の著者。
- 讃:漢文の文体の一つ。人や事物を褒めたたえる文章。冒頭に掲げた柿本人麻呂像の上部にも記されている。この讃は、『本朝続文粋』巻11(https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000481)に収録されている。
- 神祇伯顕仲:神祇伯は神祇官の長官。神祇官は神祇の祭典をつかさどり、全国の祝部(はふりべ:神官)を支配する役所。顕仲は平安後期の歌人の源顕仲のこと。なお、『新編日本古典文学全集』の当該部分の注記には「『柿本影供記』では「前兵衛佐顕仲朝臣之を書す」とあり、藤原顕仲(1059〜1129)がよいか」とされている。『柿本影供記』の著者は前記のとおり当事者の藤原敦光であること、また、藤原顕仲は左兵衛佐で能書家としても知られたことから、藤原顕仲が清書をしたとみるのが自然であろう。
- 俊頼朝臣:源俊頼。平安後期の歌人。歌人として名が高く、白河院の院宣を受け、『金葉和歌集』を撰進、また歌論書『俊頼髄脳』を完成させた。
資料
資料1 粟田讃岐守兼房が絵師に人麻呂の姿を描かせる(『十訓抄』の挿絵より)
地図、時代区分
兼房が夢で人麻呂の姿を見たと思われる場所は「西坂本」、現在の京都市左京区修学院、一乗寺付近のこと。ここでは、修学院駅付近の地図を掲げる 。
平安時代の話。