教科書では、保元の乱で敗死したことで専ら知られる藤原頼長は「日本第一の大学生、和漢の才にとみて」(『愚管抄』巻第4)と評された当代随一の学者であり、読書家でした。宋の商人から書籍を贈られた頼長は、謝礼の砂金を下賜するだけでなく、必要とする書籍の目録を与え、その入手を依頼しています。頼長の飽くなき知的探究心が垣間見えるエピソードです。
(『古今著聞集』巻第4 文学第5「宋朝商客劉文冲、左府頼長に典籍を贈る事」)
(『古今著聞集』巻第4 文学第5「宋朝商客劉文冲、左府頼長に典籍を贈る事」)
現代語訳
仁平の頃、宋の商人である劉文冲が、『東坡先生指掌図』2帖・『五代記』10帖・『唐書』9帖に、名籍(めいせき)を添えて、宇治の左府に献上した。返事は、文章博士の茂明朝臣が起草して、前の宮内大輔の定信が清書した。尾張守の親隆朝臣が書状の書式に仕立てた。砂金30両を下賜なさった。また、必要とする書籍の目録もお与えになった。
万寿3年に、周良史という者が、名籍を宇治殿に献上したことがあった。その時は、返事を差し上げなかった。
注釈
- 仁平の頃:藤原頼長(注7参照)が著した『台記(宇槐記抄)』によれば、仁平元年(1151)9月24日のこと。
- 宋:960〜1279年まで存在した中国の王朝。
- 東坡先生指掌図:蘇東坡の作ではなく、税安礼の『歴代地理指掌図』とみられている(吉井和夫「日本における蘇東坡受容の揺籃期(上)」)。『歴代地理指掌図』は、「三皇五帝の時代から北宋までの歴代の行政区域と名称を44枚の地図に書き入れ説明を付したもので、時代ごとの変遷を簡便にたどることができる一種の工具書である」(吉井氏論文)。
<吉井氏論文>
https://seizan.ac.jp/wp_new/wp-content/uploads/2021/05/kiyo-vol15-yoshii.pdf - 五代記:宋の欧陽脩の『五代史記』のこと。中国の二十四史の一。後梁から後周までの五代(907-960)の歴史を記す。
- 唐書:中国の二十四史の一。欧陽脩・宗祁(そうき)らの撰。1060年成立。宋の仁宗の命により、「旧(く)唐書」を改修補正したもの。史実の不足を補い、文章を簡略化した。
- 名籍:官位・姓名・年齢などを書き記したもの。
- 宇治の左府:藤原頼長のこと。頼長は平安後期の公卿で、久安5年(1149)左大臣に就任。その後、保元の乱にて敗死。左府は左大臣の唐名。厳格な人柄で悪左府とも称された。学才でも著名。
- 文章博士:平安時代、大学寮に属して詩文と歴史とを教授した教官。
- 茂明朝臣:藤原茂明のこと。康治3年(1144)、文章博士となった。
- 宮内大輔:宮内省の大輔。正五位下。
- 定信:藤原定信のこと。平安後期の廷臣、能書家。世尊寺流第5代当主。
- 親隆朝臣:藤原親隆のこと。平安後期の公卿。久安3年(1147)、尾張守に叙任。
- 万寿3年:西暦1026年。
- 宇治殿:藤原頼通のこと。平安中期の公卿。道長の長子。後一条・後朱雀・後冷泉の三朝にわたり摂政・関白となり、父道長とともに藤原氏全盛時代を築いた。宇治平等院鳳凰堂を建立、宇治殿と呼ばれた。頼通の曽孫が忠実、忠実の子が頼長である。
資料
資料1 『台記(宇槐記抄)』の仁平元年(1151)9月24日條の記述①
(「去年、宋国商客劉文冲、与史書等副名籍。……以沙金卅両報之、書要書目録賜文冲。此書之中、若有所得、必可付李便進送之旨仰含了。件目録、先年為召他宋人、成佐書之。撿領大宋国客劉文冲進送書籍事」などと記す。間には、万寿3年6月24日の『資房記』に記された、周良史の記事も見える。その時の前例に基づき、劉文冲には、砂金30両に求書目録を添えて与えている)
資料2 『台記(宇槐記抄)』の仁平元年(1151)9月24日條の記述②
(頼長が劉文冲に渡した、必要とする書籍の目録:五経[詩経・易経・書経・春秋・礼記]と孝経、論語などの儒教の経典が多い。詳しくは、大庭脩『漢籍輸入の文化史:聖徳太子から吉宗へ』[研文出版]57〜58ページ参照)
資料3 『東坡先生指掌図』こと、税安礼の『歴代地理指掌図』の見返し部分
地図、時代区分
藤原頼長が邸宅とした、東三条殿(東三条院)での出来事とみて、その地図を掲げる。
平安時代の話。