(『古今著聞集』巻第8 好色第11「仁和寺覚性法親王の寵童千手・三河の事」)
現代語訳
紫金台寺の御室(覚性法親王)に、千手という寵童がいた。容貌が美しく、心ばえも殊勝であった。笛を吹き、今様などを歌ったので、大変なご寵愛ぶりだったが、もう一人、三河という童が新たにお仕えした。箏を弾き、歌を詠んだのだった。これもまた寵があり、千手の影が少し薄くなったので、人に合わす顔がないと思ってか、退出して久しく参上しなくなった。
ある日、酒宴があって、管弦や歌の遊びがさまざまあった時に、御弟子の守覚法親王などもその座にいらっしゃった。
「千手はどうしておらぬのかしらん。召して笛を吹かせ、今様などを歌わせたいものだ」
と申し上げあそばされたので、すぐに使いを遣わして召されたところ、
「近頃、体の具合が悪うございます」
と言って、参らなかった。使いが再三に及んだので、そうそう断りを言い続けることができず、参上した。顕紋紗(けんもさ)の両面の水干に、袖には茨の若枝に雀がとまっている絵柄を刺繍してあった。紫色の、下のほうが濃く染められた袴を着ていた。殊更に目の覚めるように装いをこらしていたけれども、物思いに浸っている様子が明らかで、湿っぽくふさぎ込んでいるように見えた。御室が盃をとどめられた折であったので、人々は千手に今様を勧めたことから、
過去無数の諸仏にも 捨てられたるをばいかがせん
(過去世の無数の諸仏にも捨てられてしまった身の上をどうしたらよかろう)
現在十方の浄土にも 往生すべき心なし
(現在十方の浄土にも往生できるほどの心の修行はできていない)
たとひ罪業おもくとも 引接(いんじょう)し給へ弥陀仏
(たとえ罪深い私でも、極楽浄土へとお連れください、阿弥陀様)
と、歌った。諸仏に捨てられるというところを、少し抑えた声で弱々しく歌った。耐え兼ねている心中のつらい気持ちがうかがわれ、いたわしかったので、聞く人は皆、涙を流した。興趣深い宴の座も興ざめになって、しんみりと沈み切ってしまったので、御室は耐え切れなくなられて、千手をお抱きになって御寝所にお入りになった。その場にいる人たちは皆驚き、大騒ぎとなったが、その夜も明けた。御室が御寝所を見回してご覧になると、紅色の薄手の紙の二枚重ねになっているのを引き裂いて、歌を書いて、枕元に立てている低い小屏風に張り付けてあった。
尋ぬべき君ならませば告げてまし入りぬる山の名をばそれとも
(後を追って探し求めてくださるような君でしたら、私が入る山の名をお知らせ申し上げるのですが)
不審に思って、よくよくご覧になると、三河の筆跡であった。今様に夢中になられ、また昔の者に心が移った御室の心変わりを見て、このように詠んだのであった。そこで、〔三河の行方を〕お探しになったところ、行方知らずになっていた。高野山にのぼって、法師になったとかとの風聞であった。
注釈
- 紫金台寺御室:覚性法親王の号。「紫金台寺」は初め物集(もずめ)庄(現在の京都府向日市物集女町辺り)に建てられた寺で、後に覚性法親王が仁和寺に移築し、自らの御所の一つとした。
- 覚性法親王:鳥羽天皇の第5皇子で、後白河天皇の弟。出家して仁和寺に入る。大治4~嘉応元年(1129〜1169)。
- 千手:伝未詳。
- 今様:平安時代後期から流行した、主に七五調四句の歌詞による謡いもの。はじめ「今様歌」の名で『紫式部日記』『枕草子』などにみえる。「今様」とは「当世風」の意。
- 三河:伝未詳。
- 箏:弦楽器の一種。糸が13本ある琴。
- 守覚法親王:後白河天皇の第2皇子。出家して仁和寺に入る。久安6~建仁2年(1150~1202)。
- 顕紋紗:紗(うすぎぬ)の地に平織で文様を織り出したもの。「けんもんしゃ」に同じ。画像と詳しい説明は「風俗博物館」のページ(https://costume.iz2.or.jp/color/492.html)を参照。
- 水干:狩衣を簡素にした衣服。盤領(まるえり)の懸け合わせを組紐(くみひも)で結び留める。「水干」という名称は、水で洗って干せる布(麻)を用いたことによる。
- 十方の浄土:東西南北、艮(うしとら)・巽(たつみ)・坤(ひつじさる)・乾(いぬい)、上下の十方に限りなく存在する諸仏の浄土。
- 引接:臨終時に阿弥陀仏が迎えに来て極楽浄土に伴うこと。
資料
※この舞は、平安末期から室町の間に寺院で行われた遊宴歌舞の延年舞。延年舞は今様の一つともされる。絵の原出所は『法然上人絵伝』第9巻。
資料2 阿弥陀聖衆来迎図
(聖衆とは極楽浄土の諸菩薩などの聖者、来迎とは 仏・菩薩が衆生を迎えに来ること)