後白河院御熊野詣の折、紀伊国司が御前に松煙を積む話

中国製の墨を「唐墨」というのに対し、日本の墨を「和墨」といいます。その「和墨に関する唯一の文献」(植村和堂「墨」、日本大百科全書[ニッポニカ]、JapanKnowledge)とされるのが、『古今著聞集』に収録されている本話です。「松煙」は、松を燃やしてとった煤(すす)のことで、転じて、その煤をにかわで固めてつくった墨のこと。ここでは、江戸時代に刊行された『日本山海名物図会』より、松煙を取る様子を描いた絵も併せて紹介します。
(『古今著聞集』巻第3 公事第4「後白河院御熊野詣の折、紀伊国司御前に松煙を積む事」)

熊野御幸図
(出所:加納諸平, 神野易興 著,小野琴泉 画,平井五牸堂『紀伊国名所図会 後編(二之巻)』[国立国会図書館所蔵]「国立国会図書館デジタルコレクション」収録)

現代語訳

 後白河院が、御熊野詣(みくまのもうで)の折に、藤代(ふじしろ)の宿にお着きになった時、国司が松煙を積んで御前に置いた。花山院の左大臣と、その時は右大将であった中山の太政入道殿がお側近くお仕えなさっていたが、
「この墨がどの程度のものか。試してみよ」
との院の仰せがあったので、左大臣は右大将に試してみるよう勧め申し上げた。右大将は硯(すずり)を引き寄せて、墨を取っておすりになった。その様子は、除目(じもく)を記録する書紀の作法にかなったやり方であった。左大臣はじっと見て、たびたび感嘆の表情を浮かべていた。

注釈

1.後白河院:第77代天皇。鳥羽天皇の第4皇子。久寿2年(1155)〜保元3年(1158)在位。譲位後は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の5代・(途中平清盛による幽閉期間を挟み)30年以上にわたり、院政を行う。建久3年(1192)没。熊野詣を30数回行ったとされる。
2.御熊野詣:熊野三山に参詣すること。
3.藤代の宿:藤代は現在の和歌山県海南市藤白の地のこと。宿は宿駅。その地にある藤白神社は、熊野参詣道の王子のうち五体王子の一つであったため、藤白(藤代)は参詣者が必ず宿泊する要所であった。
4.松煙:松を燃やしてとった煤(すす)。転じて、その煤をにかわで固めてつくった墨をいう。
5.花山院の左大臣:花山院兼雅(藤原兼雅)のこと。兼雅は平安後期〜鎌倉時代の公卿。建久2年(1191)に右大臣となり、建久9年(1198)に左大臣に昇進した。
6.中山の太政入道殿:藤原頼実のこと。六条または中山を号す。建久2年(1191)に右大将となった。その後、右大臣を経て、正治元年(1199年)には太政大臣に任ぜられた。
7.除目:官職を任ずる儀式。平安時代以降は、大臣以外の諸官職を任命する儀式をいう。「除」は旧官を除いて新官に就任するの意、「目」は新官に就任する人の名を書き連ねた目録の意。

資料

資料1 『紀伊国名所図会』に見える「藤白墨」の記述
「藤白墨 藤白のひがしみなみ(編注:藤白神社の南東)に墨屋谷といふ此所にて松煙を焼(たき)て墨を製したると云。……(以下、ここで紹介した『古今著聞集』に基づく話が続く)」

出所:高市志友,加納諸平 撰,西村中和,上田公長,小野広隆 画,河内屋太助 [ほか]『紀伊國名所圖會 [初]・2編6巻, 3編6巻 ニ編(五之巻)』(国立国会図書館所蔵)

資料2 松煙を取る様子
「……これを取(とる)には四方障子にてかこひ其中には棚をかき、其上を土にてぬりて、肥松に火をつけてまどより入、其かがりのけふり上の方にたまるをはきて取也。是を松煙と云。……」

出所:平瀬, 徹斎,長谷川, 光信,鹽屋卯兵衛 – 播磨屋幸兵衛 – 鹽屋長兵衛『日本山海名物図會  巻之4』(九州大学附属図書館所蔵) 「九大コレクション」収録

地図、時代区分

現在の和歌山県海南市藤白での話。
鎌倉時代の話。 

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