在原業平の中将の女が鬼に喰らわれてしまった話

「この世の美人は、一人残らず自分のものにしてやろう」と思っていた在原業平。評判の美人をやっとの思いで盗み出し思いを遂げたが、最後は自分の着物もとるやとらずの態で逃げ去るはめに……
(『今昔物語集』巻第27-7「在原業平中将女被噉鬼語」)

月岡芳年「業平朝臣負二条局落行図」(出所:The British Museum : 立命館大学アート・リサーチセンター: ARC浮世絵ポータルデータベース)

現代語訳

 今は昔、右近中将(うこんのちゅうじょう)在原業平(ありはらのなりひら)という人がいた。世に知られた大変な色好みで、「世にいる評判の美人は、宮仕えの人であろうと、人の娘であろうと、一人残らず自分ものにしてやろう」と思っていたが、ある人の娘の容姿がこの世にまたとないほどすばらしいと聞き、心を尽くして言い寄った。だが、その親たちが、
「娘には高貴な婿をとるつもりだ」
と言って、娘を大事に守り育てていた。業平中将は手を出せずにいたが、どのような手段をとったのか、その娘を密かに盗み出すことに成功した。
 しかし、女を隠せる場所がなかったので、思案に困りどうしようかと迷っていたところ、たまたま北山科の辺りに荒れ果てて人も住んでいない古い山荘があった。その家の庭には大きな校倉(あぜくら)があり、片戸は倒れていた。人が住んでいた家のほうは簀子縁(すのこえん)の板もなく入れそうもなかった。そこで、倉に薄い畳を1枚持っていき、その女を連れていって寝たところ、にわかに稲光がして雷鳴が激しくとどろいた。中将は太刀を抜いて女を後ろに押しやり、立ち上がって太刀をひらめかした。そのうち、(いかづち)は徐々に鳴り止み、夜が明けた。
 ところが、女の声がしないので、中将が不審に思い振り返ると、女の頭と身にまとっていたものだけが残されていた。中将は驚き恐ろしくなり、自分の着物もとるやとらずの態で逃げ去った。後になって、この倉は人を喰らう倉だと知った。すると、その夜の出来事は、稲光や雷ではなく、倉に住んでいる鬼のしわざであったのだろうか。
 だから、不案内な所には決して立ち寄ってはならぬものである。まして泊まったりすることなどは思いもよらぬことだ、と語り伝えているということだ。

注釈

  1. 右近中将:右近衛中将。右近衛府(うこんえふ)の2等官。右近衛府は、宮中の警護や行幸の供奉(ぐぶ)などを司った役所。
  2. 在原業平:平安前期の歌人。天長2年(825年)~元慶4年(880年)。六歌仙の一人。平城天皇の皇子阿保親王の五男。母は桓武天皇の皇女伊都内親王。五男で右近衛中将なので、在五中将と呼ばれた。容姿端麗と情熱的な和歌の名手として名高く、『伊勢物語』のモデルに擬せられている。色好みの美男子として、伝説化された。
  3. 北山科地図:現在の京都市山科区の北部地区。京都市の東部で、東山山地の東側に当たる。
  4. 校倉資料1:古代の建築様式の一つ。三角形の木材を井の字形に積み上げて、壁にした倉。正倉院はその代表的なもの。
  5. 片戸:扉が1枚の開き戸。
  6. 簀子縁資料2:簀子(角材)を並べて造った建物の外側の濡縁(ぬれえん)。
  7. :『古事類苑』の「雷」の項には「雷ハ、イカヅチ或ハカミト云ヒ、又字音ニテライト云フ、奈良朝以来、雷鳴ノ時ニハ、侍衛ノ官人必ズ宮中に祗候セシガ、後ニハ大雷三度ニ及ベバ、左右近衛ハ御在所ニ、左右兵衛ハ紫宸殿前ニ陣シ、内舎人ハ春興殿ノ西廂ニ立ツ、之を雷鳴陣ト云フ、後世ハ唯蔵人及ビ瀧口御壺に候シテ鳴弦シ、御持僧念誦スルニ止マレリ」とある。

資料

資料1 『信貴山縁起絵巻』にみえる校倉

出所:国立国会図書館デジタルコレクション

資料2 『一遍聖絵』にみえる簀子縁の上を歩いて畳を運ぶ僧
(簀子縁の下で寝ているのは乞食たち)

出所:国立国会図書館デジタルコレクション

地図、時代区分

現在の京都府京都市山科区の北部地区辺りでの話。
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在原業平が生きていた平安時代の話。

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