(『十訓抄』第9「懇望を停むべき事」の7)
現代語訳
最近のことだが、下鴨神社の氏人に菊大夫長明(きくだいぶちょうめい)という者がいた。和歌、管弦の道にて、人に知られていた。神官に就くことを望んだが、かなわなかったので、世を恨んで、出家して後、同じく先立って、俗世を離れて出家した人のところへ、歌を詠み送った。
いづくより人は入りけむ真葛原(まくずはら)
(どこから人は入ってきたのだろうか、この真葛原に)
秋風吹きし道よりぞ来し
(秋風が吹いた、この道よりやって来たのだ)
深い恨みに満ちた心の闇は、しばらくの迷妄とはなったが、この思いをそれこそ道しるべとして、仏の道に入ったということは、まさに生死(しょうじ)と涅槃(ねはん)は同一、煩悩と菩提も一つであるという、仏の教えと異なるところがないと思われる。
この人は、後に大原に住んだ。『方丈記』という、仮名で書きとどめたものを見ると、冒頭の言葉に、
行く水の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
(行く水の流れは絶えることがなく、しかももとの水と同じではない)
とあるのは、
世は人を閲(す)べて世を為す 人苒々(ぜんぜん)として行き暮れぬ
(世というものは人を集めて世を作る 人は時が移ろい行く中で日が暮れる)
河は水を閲べて河を為す 水滔々(とうとう)として日に度(わた)る
(河というものは水を集めて河を作る 水はゆったりと流れて日々流れ渡っている)
という文に拠(よ)って書いたのだと思われ、とても趣が深い。しかし、あの方丈の庵(いおり)にも、折琴(おりごと)や継琵琶(つぎびわ)などを伴っていた。念仏の合間合間には、管弦の遊び事を思い捨てなかったという、風流を愛する心ばえは、とても立派であった。
その後、以前のように和歌所(わかどころ)の寄人(よりうど)として伺候するように、と後鳥羽院から仰せられたので、
沈みにきいまさら和歌の浦波に
寄せばや寄らむ海人の捨て舟
(私の舟は沈んでしまいました。浦波は寄せましょうが、私はいまさら、
どうして和歌の浜辺に漕ぎ寄せましょう。海人の捨て舟は、もう沈んでしま
ったのです)
と返事申し上げて、とうとう山に引きこもったままで、死んでしまった。
世も人も恨んだというのであれば、このようにありたいものである。
注釈
- 下鴨神社:京都市左京区下鴨にある賀茂御祖(かもみおや)神社の通称。
- 氏人:一定の神官職につかないが、氏神の祭に参集し、奉仕する人。
- 菊大夫長明:『方丈記』(注11参照)などで知られる鴨長明(ちょうめい・ながあきら)のこと。平安末期から鎌倉初期の歌人、随筆家、説話集編者。下鴨神社の付属社である河合社の神官鴨長継の子。長明は父と同じく河合社の神官に就くことを望んだが、同族の鴨祐兼の反対によって実現せず、失意の中、50歳ごろ、出家した。「菊大夫」の「大夫」は、長明が従五位下の官位であったことから、五位の通称「大夫」を指す。一方、「菊」については、長明が氏人家の南大路家の出身であることから「南大夫」とされていたものが、「『南』と『菊』の字の類似から『南大夫』の誤写である『菊大夫』が生じた」との説がある(詳しくは後掲「●プラスα」参照)。
- 管弦:音楽。
- 真葛原:「ま」は接頭語。葛が一面に生い茂っている原。
- 生死:衆生(しゅじょう)の迷いの世界。
- 涅槃:悟りの境地。
- 煩悩:衆生の心を煩わし苦しめるもの。欲望・怒り・愚痴・苦慮など、108あるとされる。
- 菩提:悟りの境地。
- 大原地図:京都市左京区北部の地名。平清盛の娘で安徳天皇の母である建礼門院が隠れ住んだ寂光院や、三千院がある。
- 『方丈記』資料1:鴨長明著の随筆。建暦2年(1212)成立。仏教的無常観を基調とし、文章は洗練された和漢混交文で記されている。なお、『方丈記』最古の写本で長明自筆ともいわれる大福光寺本は、漢字片仮名交じり文でつづられている。
- 行く水の〜:『方丈記』の広本では一般に「行く河の〜」。
- 世は人を閲べて世を為す〜資料2:『文選』巻16に見える陸士衡「歎逝賦」の詩句「夫川閲水以成川、水滔滔而日度、世閲人而為世、人冉冉而行暮」を指すとみられている。
- 方丈:方丈は約3m四方の大きさ。
- 折琴資料3:折り畳みができるように作った琴。
- 継琵琶:普段は柄を取り外してしまって置き、用いる時に継ぎ合わせるように作った琵琶。
- 和歌所:勅撰和歌集撰集のため特設された役所。天暦5年(951)に初めて設置。
- 寄人:職員。
- 後鳥羽院:第82代天皇。寿永2年(1183)〜建久9年(1198)在位。譲位後、院政を行う。承久3年(1221)、承久の乱で敗退。隠岐に流され、その地で没する。
- 和歌の浦:和歌山市の南にある海岸。景勝の地として名高く、歌枕の地でもあった。ここでは「和歌所」の意を掛ける。
●プラスα:「菊大夫長明」について
今村 みゑ子「鴨長明の通称「南大夫」・「菊大夫」をめぐる」(東京工芸大学女子短期大学部紀要『飯山論叢』19巻1号、2002年)
https://bit.ly/2RBW5y0