震旦の僧長秀、この朝に来て医師として仕えさせられる話

現代語訳

　今は昔、天暦の御代に、震旦から渡ってきた僧がいた。名を長秀（ちょうじゅう）という。もとは医師であったが、鎮西に来てそのまま住み着いて帰るつもりもないようであったので、京に呼び上らせ、医師として仕えさせた。もともと立派な僧であったので、梵釈寺（ぼんしゃくじ）の供奉僧（ぐぶそう）に命ぜられ、朝廷に召し使われることになった。
　そうして何年か経つ間、五条大路と西洞院大路の交差する付近に、　　の宮と申す方がおられた。そのお屋敷の前に、大きな桂の木があったので、「桂の宮」と人は呼んでいた。長秀がその宮のところに参上してお話を申し上げていた時、この桂の木の梢（こずえ）を見上げて、
「桂心（けいしん）という薬はこの国にもございましたのに、ただ、人がそれと分からなかっただけですね。あれを取りましょう」
と言って、童子を木に登らせ、
「これこれの枝を切り下ろせ」
と命じると、童子が登り、長秀の言うとおりに枝を切り下ろすと、長秀は近寄って、刀で桂心のある箇所を切り取って、宮のところに持ってきた。少しばかりを拝領して薬に使ったところ、唐の桂心よりも効き目が優れていたので、長秀は、
「桂心はこの国にもあったのに、それを見知っている医師がいなかったとは、とても残念なことだ」
と言った。
　このようなわけで、桂心はこの国にもあったが、見知っている人がいなかったために、取らないのであろう。長秀はついに桂心の見分け方を人に教えることなく死んだ。長秀は本当に優れた医師であった。
　それで、長秀は薬を作って朝廷に献上した。その処方はいまも伝わっている、とこう語り伝えているということだ。

注釈

1. 天暦の御代：第62代村上天皇の治世。天暦元年（947）〜11年（957）。
2. 震旦：中国の古称。もともとは、サンスクリット語で「秦国の土地」の意味を表す「チーナスターナ」が、仏典翻訳の際に中国に逆輸入され漢訳されたもの。
3. 長秀：唐の僧。父と一緒に波斯国（ペルシャ）へ行くはずだったが、途中で難破して九州へ漂着。もともと医師で、近江の梵釈寺に招かれ、僧務を行いながら医事もこなす。肉桂が薬として使えることを教え、医書を朝廷に献じた。
4. 鎮西：九州の古称。天平15年（743）に大宰府を一時鎮西府と称したところからいう。
5. 梵釈寺：桓武天皇が延暦5年（786）に、曽祖父である天智天皇の追福のために近江国滋賀郡に建立した寺院。平安末期には衰退し、園城寺に吸収された。
6. 供奉僧：本尊に仕える僧。
7. 五条大路と西洞院大路の交差する付近地図：現在の京都府京都市下京区藪下町もしくは天神前町の辺り。
8. 　　の宮：　　の部分は、宮の名または通称の明記を期した意識的欠字。
9. 桂の木資料：「肉桂」（にっけい）のこと。肉桂はクスノキ科の常緑高木で、樹皮が香料や薬、根が菓子の「ニッキ」になることで知られる。
10. 桂心：肉桂の真皮（表皮の下の樹皮組織）。古くは正倉院文書中の「種々薬帳」などにも記載がある。桂皮、桂枝ともいう。当時は薬品として中国から輸入されていた。発汗、解熱、鎮痛、整腸などの効果がある。
    ※正倉院HP掲載の「種々薬帳」
    https://shosoin.kunaicho.go.jp/documents?id=0000010569&index=0

資料

資料　『和漢三才図会』に見える「肉桂」

地図、時代区分

現在の京都府京都市下京区藪下町もしくは天神前町の辺りでの話。
藪下町：Google マップで見る
天神前町：Google マップで見る

村上天皇の御代の平安時代の話。