現代語訳
今は昔、駿河前司橘季通という人がいた。この人が若いころ、自分が仕えている家ではない、高貴な家の女房と深い仲になり、忍んで通っていた。その家にいる侍どもで、六位になるやならずの者たちが、「この屋敷の人間でもない者が、朝晩、屋敷に出入りするのは不届き千万である。おい、皆で取り囲んで痛めつけてやろう」と、集まって相談していた。季通は、そんなことも知らず、これまでのように、小舎人童(こどねりわらわ)を一人だけ連れて、歩いて出掛け、女の部屋にそっと忍び込んだ。童には「夜明けに迎えにこい」と言って、帰らせた。
その間、季通を痛めつけてやろうとする連中は様子をうかがおうとしていたが、「例の男が来て、すでに女の部屋に入ったぞ」と互いに知らせあって、あちこちの門にすべて錠をかけた。鍵はしまっておき、侍たちは皆、棒をひきずって持ち、土塀の崩れたところに立ちはだかって逃げ出せないように見張っていた。この様子を、召使いの女童(めのわらわ)が主人の女房に告げたので、女房も驚いて季通に伝えた。季通は寝ていたが、これを聞くと起き上がって衣服を身につけ、「まずいことになったぞ」と思いながら座っていた。女房は、
「主人のもとにうかがって、様子を確認してきます」
と言い、行って様子を尋ねると、「これは侍どもが示し合わせてしていることながら、この家の主人も知って知らぬふりをしていることだ」ということが分かった。女房はどうしてよいか分からず、部屋に戻ってきて泣いた。季通は、「えらいことになったものだな。恥をかかせられるに違いない」と思ったが、逃げるすべもなかった。女童に、「屋敷を出ていけるような隙間はあるか」と探らせたが、そのようなところには侍たちが4、5人ずつ、袴(はかま)の左右の裾をくくり上げて帯に挟み、太刀を持ち、棒を突いて立ち並んでいた。女童が戻ってこのことを伝えたので、季通はどうしようもなく途方に暮れた。
この季通は、もともと思慮深く腕力なども非常に強かったが、
「こうなってはどうしようもない。これも致し方ないことだ。ひたすら、夜が明けてもこの部屋にいて、引っ張り出しに来る者たちがいたら、刺し違えて死んでやろう。とはいえ、夜が明ければ、この俺だということも分かるだろうから、そう簡単には手出しはしかねるだろう。そうなった時に従者どもを呼びにやり、一緒に出ていくこととしよう」
と、思案を決めた。
「だが、あの小舎人童が何も知らず夜明けにやって来て門をたたくと、『俺の小舎人童だ』と知って捕らえ、縛られてしまうかもしれない」
季通はそれを不便に思った。そこで、女童を呼んで、小舎人童が「来たかどうか」と様子を見させにやったが、侍どもが口汚くののしったので、泣く泣く帰って来てうずくまってしまった。
そのうち、夜明け近くになった。この童はどのようにして入ったのか、屋敷の中に入って来た。侍どもは感づいて、
「そこの童は何者か」
と問うた。これを聞いた季通は、まずい返事をするに違いないと思ったが、童は、 「御読経の僧のお供の童子です」
と名乗った。侍たちは、
「そのようだな」
と言って、童子を通らせた。季通が、
「うまく答えた奴だな。しかし、この部屋に来て、いつも呼ぶ女の名前を呼ぶに違いない」
とそれをまた心配していると、部屋にも寄らず通り過ぎて行った。
「この童は気付いているのだ。気付いてさえいれば、機転の利くやつだ。通り過ぎっていったものの、きっと何か手があるのだろう」
季通は童の心が分かっているので、こう思いながら待っていると、大路のほうから女童の声で、
「追い剥ぎが出た、人殺し」
と叫ぶのが聞こえてきた。その声を聞いて、門を固めていた侍たちが、
「捕まえろ」
「そんなものはわけもない」
と言いながら、全員駆け出し、門は開けられないので、土塀が崩れたところから走り出して、
「どっちへ行った」
などと尋ね騒ぐ。季通は「これは童がすることだ」と思ったので、部屋から走り出して見てみると、侍たちは、門は錠がかけてあるから大丈夫だと疑わず、ただ土塀の崩れたところに数人がとどまり、あれこれ話していた。その隙に、季通は門のそばに走り寄り、錠をねじって引っ張ると引き抜けた。 門が開くやいなや、まっしぐらに走って辻々を折れ曲がり折れ曲がりしながら逃げているうちに、童が走って追いついてきたので、一緒に1、2町ほども走って逃げのびた。そこからいつものように歩きながら、季通は童に、
「どんな具合にしたんだ」 と尋ねた。童は、
「どこの門もいつもとは違い、錠がかけられており、土塀が崩れたところには侍どもが立ちふさがって厳しく尋問するので怪しく思い、そこでは『御読経の僧のお供の童子です』と名乗りました。すると、中に入れましたので、御主人に私の声を聞いていただいた後に、また外に出て行きました。ちょうど、このお屋敷に仕える女童が大路にしゃがんで大便をしていましたので、その髪の毛をつかんで打ち倒し、着物を剥ぎ取りましたところ、女童が大声で叫びました。その声を聞いて侍どもが出て来ましたので、『いくらなんでも、もうご主人は屋敷からお出になれただろう』と思いまして、女童を放り出し、こちらのほうに逃げ、ご主人に追いついたのでございます」
と言った。そこで童を連れて家に帰った。
ほんの子どもでありながら、このように賢いやつは滅多にいるものではない。 この季通は陸奥前司則光朝臣の子である。この男も豪胆で力が強いので、このように難を逃れることができたのである、とこう語り伝えているということだ。
注釈
- 前司:前任の国司。
- 橘季通:武勇で知られた橘則光の子。康平3年(1060)に亡くなる。駿河守の在任時期は未詳。『後拾遺集』以下の勅撰集に3首入集している歌人でもある。
- 六位:令制で、位階の第六等。正六位上・下、従六位上・下の四階に分かれる。昇殿が許された官人の最下位。
- 小舎人童:貴人の側近くで雑用を働く少年。
- 女童:女の子ども。ここでは、貴人または宮中に仕える童女。
- 則光朝臣:橘則光。生没年未詳。武勇に優れた人物として知られる。清少納言の夫の一人。『小右記』寛仁3年(1019)7月25日条に陸奥守としてみえる。従四位上。
資料
資料1 侍廊(公卿に仕える家司の詰所。『松崎天神縁起』より)
資料2 排便
(平安時代の庶民社会には便所の設備はなく、空き地があればどこでも大小便がなされたという。この絵は『餓鬼草紙』より伺便〔しべん〕餓鬼を描いた場面。伺便餓鬼は人の排泄物をうかがう餓鬼で、僧に不浄な食物を与えた者がなるとされる)
地図、時代区分
平安京のどこかでの話。
平安京は、現在の京都市の中心部(上京区・下京区・中京区)の辺り、鴨川と桂川に挟まれた地域にあった。
京都市:Google マップで見る
橘季通が生きていた平安時代の話。