寛喜3年夏、高陽院の南大路にて蝦蟇合戦のこと

今回の説話は『古今著聞集』の「寛喜3年夏、高陽院の南大路にて蝦蟇合戦のこと」。寛喜3年(1231)は「寛喜の飢饉」と呼ばれる大飢饉に見舞われた年です。京都では餓死者が路上に充満し、死臭が家中に及ぶという有様でした。そのような中、数千匹の蝦蟇が堀に集まり、敵味方に分かれて戦うという不思議な現象が起こります。
(『古今著聞集』巻第20 魚虫禽獣第30「寛喜3年夏、高陽院の南大路にて蝦合戦の事」)

歌川芳虎「越中立山の地獄谷に肉芝道人蛙合戦の奇をあらはし良門伊賀寿の両雄に妖術を授く」(出所:ボストン美術館)

現代語訳

 寛喜3年夏のころ、高陽院(かやのいん)殿の南の大路に堀があった。そこに、蝦蟇(がま)が数千匹集まり、敵味方に分かれて、かみつき合っていた。ひと組ずつ、ひと組ずつ、互いにかみつき、ある蝦蟇はかみ殺され、また、ある蝦蟇は虫の息になって仰向けにひっくり返っていた。次から次へと限りなく多く集まってくる。ある者が、試しに蛇を1匹探して、その中へ投げ入れたところ、蝦蟇は少しも怖がらない。蛇もまた蝦蟇を呑み込もうともせず、逃げ去ってしまった。京中の者は、人だかりをして見物した。昔も蝦蟇の戦いはあったとかいうことだ。

注釈

  1. 寛喜3年:西暦1231年。寛喜3年は「寛喜の飢饉」と呼ばれる大飢饉に見舞われた年。藤原定家『明月記』の同年7月3日の日記には、餓死者が路上に充満し、死臭が家中に及ぶなどと記されている。
    「草盧(注:定家邸)西ノ小路(縦ノ小路、転法輪ト号ス)、死骸逐日増スガ如シ。臰(シウ)香徐(オモムロ)ニ家中に及ブ。凡ソ日夜ヲ論ゼズ、死人ヲ抱キ過ギ融(トホ)ル者勝(アゲ)テ計(カゾ)フベカラズト云々」資料1
  2. 高陽院地図:平安京の中御門大路の南、西洞院大路の西、堀川小路の東、大炊御門大路の北にあった。古くは桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の邸宅があった。後に藤原頼通の邸となる。焼失と再建を繰り返した。この頃は、近衛基通の領有地であった。「南の大路」とは、大炊御門大路を指す。
  3. 蝦蟇:ヒキガエルの俗称。
  4. 蝦蟇の戦い:ヒキガエルなどの蛙が、群集して争って交尾する様子は、多くの蝦蟇(蛙)が戦っているさまに似ているため、「蝦蟇合戦」「蛙合戦」などといわれる。本話はその様子を描いたものか。古くは『続日本紀』にも、蝦蟇が陣を列ねる様子が描写されている。資料2資料3

資料

資料1 『明月記』に見える「寛喜の飢饉」の様子(『明月記』寛喜3年秋〔7月3日条〕より)

出所:国立公文書館デジタルアーカイブ

資料2 蝦蟇合戦の記録1(『続日本紀』第29〔称徳天皇 神護慶雲2年7月19日条〕より)

出所:国立国会図書館デジタルコレクション

資料3 蝦蟇合戦の記録2(『百錬抄』第6〔保延4年3月21日条〕より)

出所:国立公文書館デジタルアーカイブ

地図、時代区分

現在の京都府京都市中京区小川通丸太町の高陽院跡の辺りでの話。
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鎌倉時代の話。

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